■パフォーマンス「恐れはどこにある」を刷新する


ICUに呼びたいと先生方に掛け合い、10月6日、パフォーマンス公演実現に持ち込んだ、たいちさんの質問に答えて。

お手紙ありがとう。 ちょうど、スタジオで作品につてモヤモヤ考えていたところでした。 読んで、正直ホットしました。 レズビアンであることを表明した者だということを背負い、その者としての責任を表現することを期待されているのだろうかと、だとするときついなあ。 以前、「恐れはどこにある」をつくり、やっていた時との違いを整理しなければ、 今度の作品はつくれないとうすうす感じていたからです。 そして、いざ作品について考えはじめたら、そのことが前面にやってきました。 そこに、たいちさんのメールでした。

カミングアウトをする、したことについては、さんざん考えさせられてきました。 新たな壁を作ってしまった、いわゆる社会にあっては行動範囲や可能性を狭めた、 つまりあなたの言う「寛容」の構造を作ってしまったと。 でも、いつも、誰も公言しなかったら、レズビアンの存在は無いものになる。レズビアンの 立場で物を言うひとが居なかったら、人権というものが成立しないではないか。と、思ってきました。 言える環境の者が言えばいい。しかし、あまりにその数がすくないと焼け石に水、 私もレズビアン、あらわたしも、あらあらわたしもとどんどん続けば欧州のように広がり、不思議なものではなくなるのに。これは文化、国民性の問題か、窮屈で、内向的なものが支配してしまうことを好むのだからとぼやく訳です。

確かに道を追うように、identificationから始めて、家族との関係、社会のホモフォビア、さらに在日朝鮮人と共通点のある「名前」のことを通して人権について言及しました。 問題は外側との関係性に有るとして、レズビアンの置かれている状況を一レズビアンの場合として批評的に説明し、訴えてきたのです。。 しかし、この方法ではサンプル(モデル)にしかならないことを知りました。 ただ、レズビアンの人たちの中に私の行動を肯定し、応援してくれた人がいることも事実としてあります。

どうしたらハッピーになれるのか。
少なくても、犠牲的、自虐的心情に陥らないために。私たちはどんなところで肯定的になれるのかを考えることが必要なのでしょう。
いいところをみつける!
■ヘテロの単一的文脈を敏感に感じとれること。
■多様であることの開放感を知っていること。
■少数者の理解者であること
■自分を大切にするところ
■自立性が強い
■感覚が鋭いところ
他にあるかなあ?
この夏、パフナイトスタッフの協力を得て、巨大なゴムオッパイを作りました。 MASA+TARIのコラボのために作ったのですが、なんだかとても感触がよくて、パレードに持ち出し、みんなで運び歩いたのです。
そしたら、大人気でね、気持ちよかった。発見があったのです。オッパイはこども、おとな、だれもが大好きだってことがわかったのです。 以前、おおきなゴムのヴァギナをつくった時は、まずほとんどの男たちは顔を歪ませたし、 女たちも抵抗あるという感触を示す人が少なからずいました。 オッパイ、こんなに普遍性を帯びた物を私が持ち出して、わたしのアーティスト魂が 寂しがるのではないかと思うほど。でも、無条件に受け入れる人々の顔を見て、ハッピーな気分になったのは事実。

このことから、始めようと思う。この気持ちのいいオッパイをどのように展開させるか。 物の存在感はすごいものです。やっぱり、ひとつではなく2つにしようかな。 3つも4つもあったら、これはシュールな世界になるでしょう。
レズビアンの楽しみをクローズアップして、「いいかも」って思える方向で行きましょう。

レズビアンだと名乗った訳ですね。
私の場合「表現することの意味」=「生きることの意味」がかなり一致していてその中で、自分を語るパフォーマンスに力を与えるためにはすべて隠さず、というか 大切なことを除くことはできないと思ったからです。

2006年8月



■ポーランド・パフォーマンスツアー


パフォーマンスアートの昨今のことを思う。5月にポーランドのピオトルコフ・トリブナルスキーという街で行われた第8回インターナショナルアートアクションフェスティバルに参加した。60、70歳を越えたたくさんのパフォーマンスアーティストが現役でパフォーマンスをしていたのには驚いた。ただ、女性はいなかったが。彼らはポーランドの演劇が世界的に注目された、たとえばタデウシュ・カントールやグロトフスキーと同時代を生きた人たちだ。日本に視点をずらすと、具体やフルクサスで活躍した人たちと同世代、たとえば田中敦子さんと共にパフォーマンスをしているようなものだ。

 ふと、草月会館(現存する建物ではない)の名が頭によぎった。今でいうパフォーマンスアートが精力的に行われた空間だ。私は演劇だけれども、サミエル・ベケットの『言葉なき行為』を見たことがあるが、あの空間の空気を30年以上も経ってもよく覚えている。マイムを学んでいた私は大げさな身振りに違和感を感じていたので、あのせりふのない、行為によって繰り広げられる、それでいて詩的な世界が新鮮に思え たことを覚えている。

今回二つ目のパフォーマンスイベントがおこなわれたクラコフの街で、ズブニエフ・ワルペチャウスキー(パフォーマンスアーティスト)は待っていてくれた。グループ展の仕込みをしているからそこにいらっしゃいと言ってくれたので、訪ねていくと、そこはカントールの芝居をやっていた劇団の拠点で、地下室の大きな蒲鉾型をしたレンガ空間だった。え、ここがあの「死の教室」が生まれた空間!東京のパルコ劇場で見た演劇のシーンと重なってゾクゾクとした。パブとしても一部使われているその壁には当時の集合写真が何枚も掛けてあった。当時の熱気を押しやり、眠らせている暗い壁。記憶をかき乱し、符合させるのに充分な空間だった。

その地下室を出ると、雨上がりの空が青く晴れ渡り、敷石は光っていた。ズブニエフさんはプレゼントがあると言いながら、私をリネック広場に連れてゆき、観光用の馬車の馭者と交渉をはじめた。3台目の馬車に乗ったズブニエフさんと私は観光客の目にさらされながら、とてもエレガントだった。クラコフで一番美しい街路を通り、細い路地に入って、ズブニエフさんは若い頃毎日座って仕事し、語り明かしたカフェのテーブルを指差した。ナチの戦火から逃れたクラコフは人々の傷ついた心と身体を受け止めながら、その叫びを聞いた。それがズブニエフさん世代の演劇人やアーティストの仕事だったのだろう。生涯初めて馬車に乗ったと言うズブニエフさんのポートレートパフォーマンスだったと今回想する。

クラコフに行くことが決まって、密かにアウシュビッツへ行こう、その時間がとれるだろうかと、ガイドブックの時刻表ばかりを見ながら過ごしていた。パフォーマンスは旧ユダヤ人街のカジミール地区の広場の角のパブで行われた。ホテルもその街にあり、私のパフォーマンスも初日に終わってしまい、すべては用意された。ひとり、早朝ホテルを出た。

私は結局、ズブニエフさんにも他のポーランドのアーティストたちにも訪ねるつもりだということも、行ったとも告げなかった。あまりに密接すぎると感じてたじろいだのだった。今もここで適切なことばで見たことを表せないし、消すことのできないイメージがよみがえる。「夜と霧」を改めて読んだり、友人が「きれいな絵なんかなかった」を貸してくれて読み始めた。

パフォーマンスアートの昨今のことを思う。と書き始めたのだったけれど、それは次にまわして、とりとめのないノートにとりあえずピリオド。

2006年7月